秀衛門-2

家忠は忍城に一年半ほど在城したが、知行地替えの命令を受け忍城を去ることになった。
家忠日記によれば、
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天正十九年十二月二十九日--をし福松様近日御うつり候とて知行下総にて替候ハん由候。
天正二十年一月二十五日--知行五千石下総小海川近所にて渡候
     二月二日--知行残り五千石の事ニ小田原迄酒井平右衛門越候
     二月十九日--忍之城わたし候て新郷より舟にて出候
二十日--矢はき迄越候
二十一日--かないと迄越候
二十二日--上代=カジロ 迄つき候。小海川にて吉田佐太郎ふる舞にて馬ヲくれ候.佐太ニ刀ヲ出候。
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天正十九年年末に「忍城に福松丸様が近日中にお移りになるとのことで(家忠の)知行地は下総に変更になる」との連絡があった。
ここで、福松丸=松平忠吉がやっと忍城に入城することが決まった。(忠吉は忍城十万石の領主になる。)
家忠は下総・小海川(=小見川)近くに五千石の知行地を得ることになった。(残り五千石は後日決定)
天正二十年一月二十九日に忍城を(福松衆に)渡した。
福松衆に「渡した」ということはやはり家忠が彼らの上司で忍城を守っていた城代だったということだろう。
当日舟で新郷を出発した。
家忠の時代の河川の流れと家忠の通過ルートを記入した地図がこれ。
家忠-忍城-上代-小見川ルート
当時の古利根川は現在のように銚子に向かっておらず南行して東京湾に注いでいた。
十九日に忍城を出発した家忠はまず新郷から船に乗って古利根川を下っていった。
二十日には矢作に着いたが、途中の赤線で示した逆川はwikipediaなどでは「江戸時代になってから開削した」と書かれていた。
家忠が通った時はここに川は無く、利根川と常陸川や小貝川は別の川で矢作はこの川のほとりに位置していた。
しかし、元々利根川と常陸川の間には小さい川でつながっていたと思う。
その川は関東地方の他の川と異なって南から北に流れて常陸川に流れ込んでいたのだろう。
そのため 逆流れの川=逆川(サカサガワ) と呼ばれていたのではないか。
江戸時代になって、江戸に流れていた古利根川の洪水対策で逆川を広げて常陸川に繋ぎ利根川の本流を銚子方面に変えたと思われる。逆川の川幅を広くして流れを大きくした工事を開削したと言ったのだろう。
家忠は当時は細い流れだった逆川を船で通って矢作に行ったのだろう。
二十一日には「かないと」に着いたと書かれているがこれは現在の「金江津」のことらしい。
そして二十二日には、まず小海川にて吉田佐太から馬をもらい返礼に刀を渡した。
その後、上代=カジロ に到着した。
 ⇒続く

天正十八年八月二十九日 松平家忠は松平周防守康親から忍城を受取り忍城城主となった。
石高は一万石。

先日、埼玉県に行く用事があり、ちょっと遠回りして忍城の見学に行ってきた。
行田市郷土博物館の入り口前に武将がいた。話を聞くと「成田長親公」だった。
成田長親=ナガチカ は「のぼうの城」の「のぼう様」だ。⇒ のぼうの城と家忠
この武将隊の正式な呼び名は「忍城おもてなし甲冑隊」。
真ん中が「のぼう様」左が「柴崎和泉守」右が「酒巻靱負=ユキエ」
のぼう様-武将隊
いずれも「のぼうの城」で活躍していた。
全員で5人らしいがこの日はこの3人だった。
メンバー中に美女で勇猛という「甲斐姫」がいないのがやや残念、
話を聞くと「武将隊繋がりのイベントで岡崎にも行くことがある」とのこと。
で、家忠については
「忠吉の繋ぎで短期間いましたね。城主ではなかったけれど城下町の整備をいろいろした人です。」
とのこと。
確かに郷土博物館の歴代城主の表をみると家忠だけが
(松平家忠)
とカッコ付で書かれていた。
何かガッカリ。ついに家忠が一万石の城主になった、と思ったのだが。
そういえば家忠日記には、「ふく松様衆」とか「沼津衆」と言う言葉が何度も出てくる。この「福松様衆」などは、松平忠吉の家来衆のこと。(忠吉は沼津城主だったので「沼津衆」とも)家康の四男・忠吉は幼名「福松丸」と呼ばれていた。
家忠はどうも忠吉が忍城に入る前のつなぎとして城を守っていたようだ。
家忠日記には、
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九月十七日--御ふく松さま衆と家分すみ候
九月十八日--成田下総所より音信候、樽・肴・大すす一対・まきえの重箱一
九月二十二日--成田衆連歌士 了意 礼に越候
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と、9月17日には忠吉の家来衆と城下の住み分けを決めた。
「福松衆」は家忠に少し遅れて忍城に入城したようだ。
しかし、忠吉本人は当時10歳とまだ幼少だったためか大坂などにいて結局家忠がいるあいだは忍城には来なかった。
福松衆の中で最も禄高が高い家臣は富永三右衛門で九千石だったから、一万石の家忠が城主でないにしても城代のような立場だったのだろうと思う。

9月18日の成田下総とは成田下総守氏長=ウジナガ のことで、忍城の戦いで開城するまでの城主。
小田原城に北条方として小田原城に籠城しており、忍城に居たのは城代の成田長親(=のぼう様)。
氏長は小田原城落城後は蒲生氏郷=ウジサト に預けられている。
氏長は新城主(城代?)となった家忠に酒樽や蒔絵の重箱などを贈った。これは就任祝いとしてと思われる。
忍城開城のあと「のぼう様=長親」については「小田原城落城後浪人」と記録があるものもあるが消息がよく分からなかった。(どうも小説中ほどには重要視されていなかったようだ)
また、9月22日には氏長の家臣で連歌師の了意があいさつに来ている。
家忠は連歌が趣味で日記にも毎月月初めは定例で連歌の会を開いているほどの連歌好き。氏長も連歌好きなので同好の士として了意を遣わしたようだ。
了意は土産として茶室で使う 柿本人麻呂の絵と茶せん を持ってきた。
氏長は家忠を新城主と考えていろいろ気を使ったのだろう。当初は「単なる繋ぎ」とは考えられていなかったように思う。

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沼津市のページから、沼津の歴史を見ると
①沼津の地名は「吾妻鑑」の承元二年(1208年)の項に「沼津の海に・・・」という記述が初出。
②江戸時代前はこの地の城は「三枚橋城」と呼ばれており江戸時代になり沼津藩となったが「沼津城」が出来たのはずっと後の寛永六年(1777年)になる。
、と書かれている。
つまりこの時点では沼津藩ではなかったし沼津城も無かったわけだ。
しかし、家忠日記には「福松様衆」=「沼津衆」と書かれており、沼津の城主・忠吉の家来衆に間違いない。毎回「沼津の城」などとまだるっこしい言い方をするとは思えないので、この時期に普通に「沼津城」と呼んでいたと思われる。三枚橋城よりも沼津城の方が誰にでも分かりやすかったのだろう。
注)Wikipediaによると「三枚橋城」という呼び名は後世の文献にしか出てこないようだ。⇒ 三枚橋城について

 ⇒続く

「のぼうの城」の攻防の後明け渡された武州・忍城=オシジョウ の城主になったのがなんと、松平家忠 だったのだ。(武州は武蔵国の別称・愛称 ⇒ 上野国は上州、紀伊国は紀州 )

小田原城が落城し北条氏が滅亡したのは天正十八年七月六日、それに伴い忍城が開城となったのが五日後の七月十一日。
この時期の家忠日記にはこのように書かれている。
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六月二十日--近々国変わりがあるとのこと
七月十六日--江戸へ出発
七月十八日--江戸に到着
七月二十日--三州へ戻れとの指示あり。国替えのため深溝の妻子に引越しを伝えるため。
八月五日---深溝に着いた。妻子は国替えにビックリして騒いだ。
八月八日---江戸から川越城に行けとの連絡あり。岡崎に百貫の貸付を取りに行かせた。
八月十八日--関東へ出発。
八月二十六日-江戸に着いたが体調が悪く登城できなかった。
 をしの城(=忍城)を仰せつけられた。早々に入城せよとのこと。
八月二十九日-忍城に着いた。松平周防より城を受取った。
九月十一日--三州衆(=三河の家来衆)が到着。
  知行として一万貫を給わった。
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天正十八年七月六日に豊臣秀吉が小田原城を落城させたが、それ以前の六月二十日には国替わりがある、との連絡を受けている。
この時点でもう落城を見越して関東移封は決まっていたようだ。
七月十八日に一旦江戸まで行ったがすぐに引越し準備のため深溝に帰った。
江戸から「川越城に行け」との指示があった。
八月二十六日に江戸に着くと、変更があり「忍城に急ぎ行け」とのこと。
二十九日に忍城に入城し、松平周防守康親から城を受取り家忠は晴れて忍城主となった。
九月十一日に一万石の知行書付を貰った。(何故か家忠は一万貫と書いている)
その後十月二十日前後の日記の下欄に、家来衆に計三千石ほどを分け与え各々の石高を書いている。
このように十四松平のうち深溝松平の家忠は武州・忍城一万石の城主(=江戸時代で言えば譜代大名)となったのだ。

つい先日、用事で埼玉に行った時ついでに忍城に寄ってきた。
 ⇒続く
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これは天正時代の忍城の絵図。 「関東、歴史旅行情報」のページより
忍城-天正年間絵図
沼地の島に建物が散在し細い道で繋いだ水に浮かぶ城になっている。

ところで、最近「のぼうの城」(和田竜著)を読んだ。
この本は100万部以上の大ベストセラーで確か映画化もされたらしい。
が、実は全く知らなかった。
先日、何故か家の本棚にあることに気が付いたので世の中の話題からはかなり遅れたが読んでみた。
「のぼう」というのは城主の成田長親のこと。
この話では、かなりボケた男で「でくのぼう」を略した「のぼう様」と呼ばれていた、とされている。
で、その城というのは武州(武蔵国) 忍城=オシジョウ のこと。(現在の埼玉県行田市の城)
天正十八(1590)年に石田三成がこの城を水攻めにした攻防が書かれている。
三成は後に関ヶ原の戦いで西軍の実質の総大将として家康と戦って敗れることになる。
忍城に立てこもったわずか3千の長親勢は2万数千の大軍を率いた三成を手こずらせ水攻め失敗の後には「負けた」と言わせるほど善戦した。
他の関東の北条方の城は全て落ちた後も頑張っていた。
しかし、秀吉が小田原城を落としたことでこの城も降伏・開城することになって終わる。
ところで、その忍城がこの家忠日記の松平家忠と大いに関係あるのだ。

これは「のぼうの城」のイラスト
  ze-ssan.comのページより
のぼうの城-表紙
右が「のぼう様=成田長親」、左が石田三成。

天正一八年の攻防で小田原城が落ちこれに伴って忍城が明け渡された。
北条氏が滅亡したことで関東の平定が完了し、秀吉は家康に関東移封を命じた。
家康は関東一円を得たとは言え、三河・遠江・駿河などの生まれ育った領地を去らなければならなかった。
これにより家康は江戸城に入った。
これは天正十八年八月朔日(ついたち)のこととされている。
江戸時代、江戸城では家康入城の日を祝って毎年「八朔御祝儀=ハッサクゴシュウギ」という行事が行われたらしい。
家康の江戸城入城に伴って家臣団の三河武士たちも関東に移封され各地の城主となった。
そしてこの忍城に入ることになったのがなんと、松平家忠 だったのだ。

 ⇒続く

家康は伊賀越えで岡崎に帰った二日後の天正十年六月六日に書状を出している。
それがこれ👇   --徳川家康文書の研究--より
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此時候間、下山へ相うつり、城見立候てふしんなさるべく候、委細左近左衛門可申候、恐恐謹言
  六月六日   家康(判子)
   岡次 参る(=岡部次郎右衛門正綱 殿 の意味)
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岡部正綱に対して駿河から甲斐の下山に行って城を築くように指令した手紙になる。
下山は穴山梅雪の領地。
穴山が亡くなった(切腹)ため領主がいなくなっておりここに城を築けと言っているのだ。
六月二日に本能寺の変が発生、同日穴山梅雪が亡くなり、四日夜に必死の思いで岡崎城に逃げ込むことが出来た、そのわずか二日後に書かれた手紙になる。
このとき家康軍は信長を殺害した明智光秀対策で出陣準備を急いでおり、相当あわただしい時だったはず。
六月四日の書状で「是非惟任(光秀)の儀成敗すべき」=「光秀を何としても成敗する」と宣言しているのだ。さらにこの時点では誰が光秀派かはっきりしていないはず。
家忠日記には六月五日に「伊勢・尾張から家康に使いの者が来た。一味の儀にて候」とある。「一味」とは味方のことで伊勢と尾張から同盟して行動しよう、と連絡が来たわけだ。
この連絡は家康が信長派に間違いないことの確認でもあったと思う。
つまり京へ進撃しても誰が味方かをよく確認する必要があった。
家忠日記によれば出陣予定も、
 九日--西陣少し延びる由酒左より連絡あり(酒左とは酒井忠次)
 十日--十二日出陣の由・・・
十一日--十四日まで伸びる由・・・
十七日--酒左の手勢が津嶋へ移動・・・
と、津嶋まで進んだが、十九日に秀吉から上方は全て落ち着いたから帰るように、との連絡があった。
そして、二十一日には家康以下全員帰陣した、と書かれている。
様子を見ている間に山崎の戦があり光秀は死んで全て終わってしまったのだ。
このように少しずつ出陣が遅れていったのは家康が誰が味方かなどの情報分析に手間取ったためだろう。
その最も忙しい時期に、よく穴山の領地のことまで考えが及んだものだ。
そこまで気が回ってこそ天下を取るべき器、というのだろうか。
というより穴山を切腹させのはこのためだったのではないか。
元々武田の重臣だった穴山とは何か引っかかりがあって将来的に邪魔だと感じておりこのチャンスに実行したのかもしれない。
とにかく驚くほどの手際よさで穴山の領地をわがものにした、と言えるだろう。
穴山梅雪の配下のものは穴山衆と呼ばれたが家康はこの後この者たちも配下にしている。
それも見越して(家康とは関係なく)梅雪は不慮の死に方をした、との噂を広めたとも考えられるのではないか。
江戸時代から現代まで「家康物語」はマイナスのエピソードがあったとしても都合よく改変したり別の人間の所為にしたり、神君に都合良くかつ幕府に聞こえが良いように脚色されてきたと推測される。(信康・築山殿事件など)
そう考えると、やはり「家忠日記」は出来事をリアルタイムにかつ客観的に書かれており最上の記録書と言えるだろう。
なにしろこの時点でも日記中で「家康」「酒左(=酒井忠次)」などと呼び捨てにしているのだ。(酒井左衛門尉忠次は松平家忠の直属の上司)
これは家忠日記の六月四日のページ。
家忠日記-天正10年6月4日-家康
赤枠部分に「家康」と呼び捨てで書かれている。
この日記が誰かに見られるとは全く考えていないのが分かる。
書かれている内容も、家忠自身の考えをあまりはさまず起こった事実だけを書いている。
信ぴょう性の高さから、家忠日記と異なっている記録はそちらが違っていると考えた方が良いだろう。

家忠日記を書いた松平家忠は三河地方のいわゆる「十四松平」(じゅうしまつ、と呼ぶらしい)のひとつの深溝松平家。 ⇒ 深溝松平家は十四松平のひとつ
江戸時代には深溝松平家は九州・島原藩七万石の大名にまでなるのだ。
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ところで、最近「のぼうの城」(和田竜著)を読んだ。
この城とは現在の埼玉県行田市にあった 忍城=オシジョウ のこと。
この城がなんと家忠に大いに関係のある城なのだ。
⇒続く

神君・家康関係の書は数多くあるが伊賀越えの時に穴山梅雪は一揆衆などに殺害された、と書かれているものがほとんど。
しかし、六月四日の家忠日記には「穴山は腹切り候」と書かれているのだ。
穴山梅雪の最後についての記録の例をいくつか挙げると、
◎大久保彦左衛門「三河物語」1622年
 家康から遅れたために物取りが打ち殺す。
◎木俣守勝「木俣土佐紀年自記」 1600年頃 
 野伏が集まって梅雪を殺害した。
◎ルイス・フロイス「耶蘇会日本年報」1583年
 穴山殿は(家康に)遅れて少数の部下を従えて出た。一度ならず襲撃を受け最後には自身も殺された。
◎「東照宮御実紀」1843年
 梅雪は別行動し一揆のために主従みな討たれた。
◎太田牛一「信長公記」1600年頃
 宇治田原において一揆どもが梅雪を生害した。
この他多くの記録はどれも一揆衆や物取りなどに打ち殺された、とされている。
しかし、どの資料もかなり後になってから書かれたものでリアルタイムの記録ではない。
まさにその時点での客観的記録は家忠日記だけで、家忠は「穴山梅雪は切腹した」と断定的に書いているのだ。
家忠はどうやってこの情報を得たのか?
梅雪が家康より遅れて堺を出発した場合、どこかで殺されたとして
当時は電話もメールもラジオもテレビも無いのだ。その情報は誰かが直接伝えるほかに手はない。
その誰かが、家康の超高速の大和・伊賀越えよりもさらに早く岡崎城に「穴山切腹」の情報を伝える方法は考えられない。
当日の家忠日記に書いてあるのは六月四日に到着した家康一行から聞いたからに違いない。
とすると、家康一行は穴山が切腹したのを知っていたことになる。
よく考えると家康がこれを知っていたのも当然とは考えられない。
梅雪が家康より遅れて出発したり別ルートを進んでいたのなら家康が梅雪が死んだという情報を得るためには見た誰かが一行に追いついて知らせたことになる。
かれらは高速で移動しておりわざわざそれを追いかけてまで連絡することがあるのだろうか。加えて多くの説では梅雪以下全員殺害された、と言っているのだ。では誰が家康に連絡したというのか?
ある説では、一行が木津川を渡るとき遅れた穴山がまだ対岸にいたところへ郷人が襲い掛かり穴山他そこにいた全員を打ち殺してしまった。家康はこれを対岸から見ていたがどうすることも出来なかった。と記録している。
この説のとおりなら家康が穴山が死んだことを知っていたのは当然だ。
しかし、「穴山が切腹した」とは書かれていない。家忠の記録は動かせない。
何といっても梅雪の死後わずか二日後に当事者から直接聞いて書いた日記なのだ。
前にも書いたが家忠は自分の記録だけのために書いていて家康など誰かに遠慮や忖度などする必要はないのだ。他の資料とは信ぴょう性が雲泥の差だ。

つまり「切腹」と書いていない資料は全て後世の創作かその伝聞(さらにそのまた伝聞さらに+創作など)と考えて良いだろう。
家康たちが知っていたのは、穴山梅雪の切腹が家康が見ているところで起こったことだからと思う。
江村専斎の話をまとめた「老人雑話」の「坤の巻」から抜き出すと、、
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・・・堺に御座す内、明智謀反して信長を弑す。是より両人(=家康と穴山)伊勢路を越へ本国へ帰る。穴山路次にて一揆に殺さるゝと云、又東照宮の所為なりとも云。・・・
   ---WIKIsourceより---
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江村専斎は1565年生~1664年没(100歳!)となっており家康と同時代の人。
上記太字部分のように「穴山梅雪の死は東照宮(=家康)の所為(せい)と言う説もある」と述べている。
当時このような噂があるのは、家康に何らかの謀=ハカリゴト があり穴山梅雪を切腹に追い込んだから、なのではないか。(例えば、梅雪の家臣全てを殺害してから切腹を強制した)
当然家康らは経緯を知っているので岡崎城に帰ってすぐに穴山は切腹したと家忠に伝えたのだろう。
他の書ではほとんどが一揆勢や郷人に殺されたなどとされているのは、家康と家来衆がこの事実を公にしたくなかったため風説を流したとも考えられるのではないか。
さらに、それらの記録した者の中には事実を知っている者がいたとしても神君が謀略によって殺したなどと書くのを避けたのではないか。
家忠は自分だけの忘備録としての日記なので書きつけたのだろう。
これは穴山梅雪の画像。wikipediaより。
穴山梅雪画像-WIKIPEDIA改

⇒「家康の六月六日付の書状」に続く。
 ここに書かれているのは?

家康は大和越えのあと伊賀越えして伊勢の白子まで到達したというのが今回の結論。
その後は、船で知多半島を回り込んで直接(碧南の)大浜に上陸した、というのが通説で、このルートはこれで間違いないと思っていた。
しかし前ページの、萩原氏によれば最近の説として、
『伊勢・白子浜から角谷七郎次郎の仕立てた船に乗り常滑湊に上陸、知多半島を横断し成岩(半田市ならわ)に至り、ここから再度船に乗り大浜に着いた』
というルートが有力、としている。
これを見て、家忠日記の内容を思い出すとこの説の方が説得力があるように思われた。
ここでもう一度六月四日の家忠日記を抜き出すと、
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信長親子の件は秘定であるとのこと。岡崎・緒川より連絡あり。家康は堺にいたとのこと。
岡崎城に登城した。家康は伊賀・伊勢を通って大浜へ上陸された(される?)。
町までお迎えに行った。穴山は切腹した。途中で七兵衛(=織田信澄)も別心というのは誤報だった(と聞いた)。
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と書かれており、(家忠は深溝城にいたところ)岡崎城と緒川城から連絡があり、家康は大浜に上陸、と聞いた、と書かれている。
今までは、大浜に上陸した家康が岡崎城に早馬を送って家忠に連絡し、家忠はその連絡をうけてから出発して迎えに行ったと考えていた。
しかし、それでは伝令を送ってから家忠が来るまで家康一行は大浜でじっと待機したことになる。ここで無駄に数時間も消費したことになってしまいかなり不自然だ。
家康が大浜に上陸するという連絡は緒川城経由で来たのだろう。
家康が常滑に上陸してすぐに伝令を出せば常滑⇒緒川城⇒岡崎城は約40km。
この道は頻繁に利用されかなり整備されていたと思われ、早馬を飛ばせば2~3時間で到達可能だろう。
このルートを現在の地図に記入したのが下図。
北側の青線が早馬のルート。
南側の赤線が家康一行の常滑~大浜のルート。
常滑-緒川城と成岩-大浜ルート
家康も緒川城コースを通れば時間的に早く帰れるだろうが、このルートは東海道を通ることになる。
主要街道周辺では家康一行は目立つので残党狩りに遭ってしまう危険が大きい。
これを避けるため街道から遠くてもより安全な三河の南部を通るルートを選んだのだろう。
白子浜から常滑湊まで約25km。海路で5~6時間。
六月三日深夜に白子浜を出て未明に常滑湊に上陸。午前5~6時には常滑を出発できる。
このとき緒川城~岡崎城への早馬も同時に出発させる。
常滑港から成岩(ならわ)までは約10km。2~3時間
成岩から大浜は船で約5km。1~2時間。
大浜から岡崎城は約30km。6~7時間。
乗り換えなどでロスがあるはずだから上記より時間がかかっただろうが、最速で夕方には岡崎城に到着できる。
迎えの家忠も四日の朝8時頃に連絡を受けて岡崎城に行き、準備して大浜に急行すれば家康上陸に大きな時間のズレなく出迎えられただろう。

とにかく、本能寺の変が起こった六月二日早朝から信じがたいほどの速さで堺から岡崎城に六月四日に帰り着いたのだ。
ほぼ徒歩で山道越えの行程では神業に近いと思う。
この速さなら明智の手の者あるいは一揆衆などに情報が回る前に危険地帯を通過することができた、と言えるだろう。
現在でも同じ行程を同じ時間で踏破できるのだろうか?
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ところで家忠日記には「穴山(梅雪)は腹切り候」と書かれているのだが通説はこれと違っているように思える。
⇒続く

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